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アメリカンライフ 真偽その2:ジェントルマンが多い?

筆者の経験、独断と偏見でアメリカの真偽を語るアメリカンライフ。二回目の今回は、アメリカにいるジェントルマンについてです。 海外ドラマや、ハリウッド映画を見ていると、気になりませんか? ホテルやマンション等のドアを、後から入ってくる女性のために率先して開けてくれたり。 家の中の面倒な修理などを喜んでやってくれたり。 とりあえず力仕事やそんなことをひょいひょいと笑顔でやってくれる、アメリカンジェントルマンの存在。 筆者は在米中、日本に一時的に戻ってくると、必ず女の友達から、「映画で見るような感じで知らない人でもドアを開けてくれたりした?」と聞かれることが多かったです。 多くの日本の男性は面倒くさがったり、照れたりしてやってくれなかったりすることが多いのかもしれないですね。なので、女の人は、やはりそういうところに目がいってしまうし、気になるところなようです。 さて、本当にアメリカではそんな「ジェントルマン」が多いのか? ドアは勝手に開く ドラマや映画でよく見られるような、「はいどうぞ」とレディーファーストでドアを開けてくれるような光景。結論から言えば、全く知らない男の人でも、相手が女の人であれば必ずドアは開けてくれます。 あなたが女性であれば、ほとんど必ず、といっていいほどドアは勝手に開きます! 中年のおじさんだったり、もう「おじいさん」といっても言いような年の頃の男性でも、ドアを開けてくれた経験は、筆者でもあります。男であれば、女の人がドアのところに立っていれば、開けないとプライドが許さない、という感じです。 「アメリカでは男性は本当にドアを開けてくれるのか」という質問を里帰り中の日本でされたとき、そういえば在米中は自分でドアを開けること、というのがないなと改めて思いました。 ところで、アメリカのドアって、すごく重いんですよ。日本とは造りが違っていて、すごく重くて、何気なく開けると、開かないときなんかもある。そして案外、都市部でも自動ドアが日本より少なかったりします。そういう背景もあってなのか、男性がドアを開ける文化は、浸透しています。 結構セレブ気分が楽しめます。 荷物は持ってくれる 留学生活を始めるために、初めてアメリカという地を踏んだとき、まず最初にするのが大学の寮にチェックインして、自分の部屋まで行くことでした。 もちろんその時、日本から持ってきたスーツケースや鞄を引きずって行ったわけです。大学のキャンパスをごろごろと大きな荷物を持っての移動は大変でした。しかも、私の寮の部屋はエレベーターがない寮の4階。 これは大変だぞと思いながら、ひいひいと歩いていると、「荷物持ってあげるよ」と見ず知らずの大学生が声をかけてくれました。 彼はアジア系のアメリカ人だったのですが、同じようなアジアの風貌の筆者に親近感がわいたのかもしれません。とにかく、彼は率先して私の大きなスーツケースを転がし、4階の部屋まで階段も大変だったと思いますが、嫌な顔ひとつせずに、運んで行ってくれたのです。 部屋まで荷物を運んでくれると、じゃ、とすぐに行ってしまいました。 私は初めてのアメリカ生活第一日目にそんな経験をして、アメリカ人の男性というのは本当にジェントルマンだなと思ったものでした。 ジェントルマンは存在する 筆者が思うに、アメリカのジェントルマンというのは存在します。 女性の視点からいうと、見ず知らずの男性が優しくしてくれるというのが、得点が高いです。 日本で生活していると、知らない人同士でお話をするというのも稀ですが、特に知らない異性がナンパではなく妥当な理由でそういう手助けをしてくれたりというのは、緊急時でない限り少ない気がします。 日本でもそういった知らない人同士のつながりが強くなれば、おもしろい出会い方もあるのになと思います。 アメリカにいる時の一つの楽しみは、そういうきっかけでの人の縁であったりもします。 画像提供:写真ACより http://www.photo-ac.com/

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聖徳太子の施政

聖徳太子が摂政になる   蘇我氏が物部氏を倒した後、泊瀬部皇子は天皇に即位、祟峻天皇となった。 しかし、蘇我馬子のあまりの専横ぶりに、やがて憎しみをもつようになった。 即位から5年後のある日、天皇に一頭のイノシシが献上された。 すると、天皇はそのイノシシをさして、「いつになったら、このイノシシの頭を切るように、嫌な男の首を切ることができるのだろう」とつぶやいた。 このことを聞いた馬子は、身の危険を察し、天皇を暗殺した。 次の天皇として、馬子は、かつて自分を支援してくれていた姫を天皇にした。 推古天皇である。 そして、その甥であり、自分を支援した聖徳太子(厩戸皇子)に皇太子として即位させ、かつ摂政として、馬子とともに政治をおこなうことにした。 聖徳太子は20歳だった。 聖徳太子は、画期的な改革をおこなった。 冠位十二階や十七条憲法を定めたり、遣隋使を送ったりしたのはあまりに有名だが、その他にも、日本で始めて暦を採用したなど、後世に残るような改革をおこなった: 十七条憲法においては、1条の「和をもって貴しとなし…」で有名だが、その他にも、「近頃、賄賂を取る者が多く、そのため財のある者が訴訟に勝つようになったが、訴訟に当たるものは、賄賂を断ち、公明正大を期さねばならぬ」という注意書きもある。 ところで、日本書紀によると、「十七条憲法は皇太子自らが初めて作った」と書いてあるが、果たして、その皇太子は、聖徳太子のことを指しているのか、と疑問視する声もある。 遣隋使の派遣 そのころ、大陸文化は、朝鮮経由で日本に入っていたが、朝鮮における日本の出先機関「任那」が新羅により滅ぼされると、聖徳太子は大陸文化を直接取り入れようと考えた。 大陸では隋が栄えていたので、大使は隋と国交を開くことにし、607年、小野妹子を使者として隋に送った。 妹子は、「日出ところの天子、書を日没するところの天子にいたす。 つつがなきや・・・」という、有名な書き出しの国書をもって隋に渡った。 この国書をみた隋の皇帝煬帝は、大いに機嫌を損ねた。 そうかといって、日本との国交を拒否できない事情が、隋にはあった。 それは、朝鮮の高句麗を牽制するため、隋は日本と手をにぎるほうが有利だったからである。 こうして、互いの国に使者を送りあい、日本と隋は正式に国交を開始した。 そのころ朝鮮では、百済と新羅が争っており、高句麗は隋に圧迫されていたので、百済も高句麗も日本との交友を深めたい、と考えていた。 高句麗からは、曇徴という僧侶がやってきた。 彼は仏教だけでなく、儒教にも通じており、また絵画、紙、墨などの製法を教え、また水力で回る臼なども作った、といわれている。 一方で、隋に渡った留学生は、隋の進んだ文化をむさぼるように吸収した。 玄理や請安といった日本人留学生は、のちに大化の改新にて活躍した。

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ノンフィクション回想記 インド旅行 ムンバイ再び

アウランガバードでパスポートを無くし、プネーを経由して大使館のあるムンバイへと再びやってきました。パスポートが見つかりアウランガバードから郵送してくれるとのことだったが、まだ届いていないと言われる。数日間ムンバイをブラブラしている間に現地の大学生と出会い行動を共にし遊ぶことに今回は現地で知り合った”インドの大学生”の話で、あらかじめ言っておきますが読むと少ししんみりとした気分になるかもしれません。 交流 交流と言ったら何とも健全な話ですが、単にカフェに行ってコーヒーを飲んだり公園に行ったり、友人の画廊だと言うところでお酒を飲んだりと言うようなことをしていました。普段の会話に「宗教は何?」と出身校を聞くぐらいの感覚で聞いてきますから自分が具体的に何教なのか?なんて考えたこともありませんから「わからない」と答えていました。ちなみに友人が「仏教」だと言うと「おー!俺もだー!」と意気投合してました。盛り上がっている横でもう一人のインド人と話をしていると「彼は神を愛しているんだ」とのことで見ていると寺院を通りかかるごとに靴を脱ぎ、跪き、礼拝を済ませ、お待たせと言わんばかりの顔で帰ってくる。要するに当たり前の光景のようです。と、人間観察しているようで少し意地が悪いですがこの頃20代に差し掛かったばかりで自分の中のテーマが「人間とは何か」でしたからそういった事に目を光らせていたという個人的な背景があります。結論から言うと公園にいるフランス人をナンパしたり、クラブへ行かないかと言ったり日本の大学生としている事は変わらないかもしれませんね。 パスポート奪還 返してくれるというものを”奪還する”というのはおかしいことですが、実はパスポートは取りに行った当日に会社とある社員のデスクの中におさめられていたようです。現地の大学生と話をしていたところ「返してほしければいくら払え」と言うようなことが考えられるというのです。とりわけムンバイは金融や商取引の盛んな街で”お金持ちになりたい人”が来る街という顔を持っていて、街を歩いていても”何かをしてお金を得よう”とする人が目につくためそういった賄賂を要求されるのは珍しい事ではないと言う事情を持った街です。 彼らが相手会社と話をつけてくれたおかげでパスポートは無事友人の手に戻りました。この事やこういった事について確かにお金を要求してくることは感覚からいえば悪いことなのですが、貨幣価値や文化の違い、そうせざる得ない状況と言うのを考慮してもらえればなと思います。 別れ 「ずっとここにいてくれ」、「南はこの時期雨がひどい」など言われていましたが、旅の目的がありアルバイトをして貯めたお金で旅行していて道楽で親にもらったお金で来た訳ではなかったので別れを告げ握手をしてムンバイをあとにしました。今思うとムンバイにとどまった方が価値があったのになと思い少し後悔を残していますがこれから向かう先は長距離列車でおよそ18時間南に下ったリゾート地ゴアに向かいます。世界中からバックパッカーが訪れ、バックパッカーにとってはちょっとした聖地のような場所で、満月の夜に行われると言う「フルムーンパーティー」を目指してこれからムンバイを出発します。

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様々な法律の専門家

法律の専門家は様々 法律の専門家といえば、多くの方は弁護士を連想されることと思います。確かに、法律のスペシャリストであり、裁判を中心に法律のプロとして活動しているのが弁護士です。 しかし、法律は裁判所だけで利用するものではありません。例えば、身近なところでは、住民票を取得するという手続きも厳密に言えば、役所への申請ですので法務手続きです。また、土地を購入した際の法務局での手続きがあったり、会社を退職した場合にはハローワークで失業手当を受給する手続きがあります。 これらの手続きすべてについて弁護士が詳しいかというと 実はそうではありません。それぞれの法務手続きについて 弁護士以外にも様々な法律の専門家が存在しています。 そして専門家に相談される場合にはそれぞれの分野ごとの専門家に相談されることが良いことは言うまでもありません。 税金・年金・公的保険 まず、税金の手続きについては税理士が専門家です。この点は、弁護士と同じように多くの方が認識されている天ではないかと思われます。税金の手続きは税理士が専門家です。 一方で複雑な年金制度や公的保険(失業保険など)の制度については専門家はいったい誰なのでしょうか。年金や公的保険についての国家資格者としての専門家は社会保険労務士という資格者が専門家です。特に、年金について公的な資格を持っているのは社会保険労務士に限られます。 実は税金や年金、社会保険の手続きなどについては弁護士などはあまり詳しくありません。本来の業務である裁判に熱心な弁護士であるほどほかの税務・法務手続きについては、税理士や社会保険労務士などに相談することがあるほどです。 このように税金・年金、公的保険についてはそれぞれの専門家が存在します。 許認可・土地 許認可は主として事業をされている方に関係します。例えば、大工さんが500万円以上の工事を受注する場合、建設業法によって、建設業の許可を取得しなければ受注することはできないことになっています。安全な物件を作ることが出来るように一定水準以上の技術力と経営経験がある事業者でなくては500万円以上の工事をすることは禁止されます。 そこで、許可を取得することになるのですが、その書類は大変複雑で、建設業関連法令という特殊な法令に基づいて行わなければなりません。 そこで、行政の複雑な許認可を代理するのが行政書士です。行政書士は主として役所関係の複雑な手続きを代理する専門家であり、建設業許可、宅地建物取引業免許取得、外国人の入管手続きなどを行います。また、遺言書や相続の手続きなど個人的な相続問題を解決してくれます。 また、不動産の取引については、司法書士という専門家がいます。司法書士は登記という法務局の手続きの専門家であり、役所の中では法務局の手続きだけを代理できる専門家として活躍していました。ただ、平成14年から裁判所でも簡易裁判所の裁判に限り代理人として活動できるようになっています。 このように法律の分野は非常に幅広いため、様々な専門家が存在しています。   ライセンスURL http://www.ashinari.com/category.php?blogid=2&category=6&page=5

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常磐線の103系電車に魅せられて

高校時代から始まった、身近な路線への愛着 私は子供のころから鉄道が好きで、幼いころはよく白い紙があれば鉄道の車両の絵を書くくらいでした。その鉄道好きがますます高じたのが高校に入ってからで、進学した先の高校に鉄道研究部なる部活があり、すぐさまに入部しました。そこではいろんな形で鉄道が好きな人が集まっていました。私も漠然と鉄道が好き、というところから、まわりの人の影響で、誰から言われるともなく自然に専門性を身につけていくこととなりました。その専門性の一つが、当時通学にも使っていた常磐線の車両、とりわけエメラルドグリーン一色に塗られた103系車両でした。 103系全般に興味を抱くも、常磐線を走るシンプルだけど多彩な103系に強く惹かれ 103系は、国鉄時代の1964年(昭和39年)に誕生した通勤型電車で、1984年(昭和59年)までの間に3447両という莫大な数の車両が製造され、鉄道時においても一時代を築いたといっても過言ではないと思います。デザイン的には非常にシンプルで、前面と側面はほぼすべて路線カラー一色に塗られた鋼製の車両で、そのシンプルさと、編成の多彩さでファンの数も非常に多くいます。私も103系全般に対して興味を抱いていましたが、103系の中でも、非常に多彩な車両が存在していた常磐線のエメラルドグリーンの車両が好きでした。そのうちに、いろいろと研究するにつれて、いろんな時期に作られた車両が1つの編成を組んでいたり、その編成がばらされて別の編成を構成したり、古い車両であるにもかかわらず延命工事を受けてリニューアルされた車両がある一方で、延命工事を受けていない比較的新しい部類の車両が古臭く見えたり、一口に103系といっても、それぞれの車両・編成ごとに違ったを見せてくれるのがとても面白く、そのうちに常磐線103系の編成、当時は38本の編成が組まれていましたが、すべての編成について、構成する車両番号を暗記してしまうくらいになりました。シンプルな車両ながら、そのシンプルさとは相反する多彩さを持ち合わせた常磐線の103系が面白かったのだろうと思います。 そんな常磐線103系も2006年には引退 高校時代から追いかけてきた常磐線103系ですが、その後も長く走り、1964年から製造の始まった古い車両で、他線では老朽化による引退が始まっていたにもかかわらず、常磐線では他線からの転入によって古い103系を新しい103系が置き換えるような形で走り続けました。その車両の変遷というのも大変私の興味の惹かれるところで、私の高校時代から浪人生活、大学の4年間、そして社会人に至るまで走り続け、常磐線103系への愛着もずっと続きましたが、そんな常磐線103系も寄る年波には勝てず、2006年には引退となりました。 今ではエメラルドグリーンの103系を実物で見ることはできなくなってしまいましたが、高校時代から撮りためていた写真は非常にたくさん残っており、先日実家をあさっていたら、非常にたくさんの常磐線103系が出てきました。その一部はこちらにも掲載しますが、前面の顔だけでも3種類もあって、それだけでも多彩なのが分かります。もうこんな多彩で興味深い鉄道車両というのもなかなか現れることはないのではと思うと、さびしい気持ちになりますが、全国に目を向ければ、まだ西日本を中心に103系も現役で残っているので、数少なくなった103系電車を今後も応援していきたいと思っています。

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